【概要】
熱海にかつてあった旅館の絵葉書です。現在は検索しても予約サイトなどが出てきませんので、歴史のいずれかの時期に閉館してしまったのでしょう。
それでも、まったく情報がないわけではありません。
熱海の温泉街や建築様式が近世〜近代にかけてどのように移り変わってきたのか調査した論文があります。松田法子、大場修「近代熱海温泉における旅館の立地と建築類型」(『日本建築学会計画系論文集』71巻602号、2006)がそれで、江戸時代〜昭和初期に作成された熱海の様々な史料を読み込み、旅館の場所や建物の変遷を論じています。
この論文を読むと、玉久旅館は元々は坂口屋という江戸時代からあった有力湯屋の場所を明治後半頃には継承していたことが窺えます。そして昭和4(1929)年頃までには海岸付近へ移転。大正14(1925)年に熱海駅開業、昭和9年に丹那トンネル開通と交通の便がグッと良くなる時代に、営業拡大路線を歩んだようです。
さて、こうした交通の便の向上は、熱海に来る観光客の変化を促したのだそうです。すなわち、それ以前は政治家や官僚を中心にじっくりと過ごすスタイルが主流だったのですが、鉄道が開通すると1泊2日の短期旅程の団体観光客がどんどん訪れるようになったのです。
この絵葉書の中にある大広間や大浴場はこうした需要に応えるなかで生まれした。また同じく絵葉書のなかの玉久旅館がそうであるように、多層構造の巨大旅館が団体客を迎えていました。この当時の玉久旅館の収容人数は150人と論文はいいます。
そして、こうした写真絵葉書が大量に作成され、旅のお土産や宣伝として機能したであろうことも、旅行客の大衆化と大規模化と無関係ではないのでしょう。
【内容】包紙1、絵葉書3
玉久旅館全景 一望三海楼大広間(宴会場)/熱海名所梅園 弊館水晶風呂/湯の街熱海温泉全景 弊館客室の一部
【撮影・作成年代】昭和8(1933)年以降~
宛名面の表記が右から「郵便はがき」のため。
【作成者】伊豆熱海温泉蓬萊閣 玉久旅館
原本の蓬萊の「萊」にはしんにょうがありますが、玉久旅館の他の資料には「蓬萊」とある場合もあり、しんにょうありバージョンは筆の遊びのようなものと考えられます。
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